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三代目店主田中栄八が1970年代半ばに書き下ろした当店の歴史
籐ひとすじ百年の歩み

田中栄八

 そもそも田中家は、初代助七より栄八は3代目に当たる。初代助七は明治3年4月大坂玉造より23歳の時上京、現在の地新橋4丁目28番4号(元、田村町)に籐筵(とうむしろ※籐の敷物)を主に籐製品全般の製造業を開業、東京地区に籐筵の普及に尽力した。当時、そば屋、お風呂屋、料理割烹店と殆んどの飲食店は競って籐筵を敷いたものであるとか。当時、助七には、下谷竹町の矢部、2代目信三ほか何人かの弟子がいた。

 ある日、英国人が乳母車を修理してくれと言ってきた。当時の乳母車のボディは塗箱を使用してあったという。その時初代助七はこれを見て、このボディを籐で作ったかごを使ったなら軽くて、夏は涼しく風通しも良く衛生上幼児には最もよいのではないかと思い、早速製作に取り掛かった。当時の籠は小判型で、矢来編組下部の羽根および車輪は鍛冶屋に作らせ、早速組み立て店頭に並べたところ、次々と注文が殺到したという。後、その普及に努め、乳母車全盛時代を迎えた。

 明治22年助七没後、長男虎吉は馬喰町に分家を創業し、相前後して弟子の矢部は竹町に独立した。

 さて、2代目信三は新潟県上越市から上京、初代助七の許に弟子入りし後、長女益と結婚し、2代目を相続した。初代の遺志を続き、籐筵の製作に専念し、かたわら乳母車および小物も合わせ製造販売に力を入れ、かなり業績を伸ばした。

 明治から大正に年号が改まり西洋文化も盛んになるに従い、西洋家具の発展と共に籐椅子の売れ行きも伸びた。この頃より同業者も多くなり、付属金物製造の鍛冶屋、下駄・ぞうりの籐表も盛んになり、挽く籐屋も含め組合組織に気運が盛り上がった。信三はこれに尽力し、大正3年最初の東京籐商工業組合が設立した。組合員も370〜380人の大組織となり、副組合長に就任して組合発展のため尽力したのである。

 当時横浜に中国人の経営する籐椅子工場があったが、そちらから仕入れていたのでは需要に応じきれず、意を決し中国人の職人を雇う事にした。一時は7,8人同居していたので、その賄いは大変だったことを妻と昔語りすることがある。

 さて、組合が組織され最初の事業として、第1回品評会が日本橋クラブで開催される事になり、我が家では長椅子と花台付の5点セットを出品して最高の金牌を受賞したのである。その後営業も順調に伸び、札幌・小樽・函館・樺太・弘前・仙台などの出荷も多かった。

 3代目栄八は新潟県より15歳にして上京し田中家に就職。先輩の政太郎と共に、養父信三と初代助七の弟久兵衛に師事し技術を会得した。信三には子供がいなかったので、大正8年政太郎は養子となり竹町矢部の娘と結婚し三田に分家した。続いて大正12年栄八は同じく養女として育てられたよしと結婚養子縁組入籍した。

 結婚後間もなくの同年9月の関東大震災では家財はもとより家も焼失し一からの出なおしとなった。闇市では日用品を主に行李等を積んで出店した。人々は焼失され、入れる物に困っていたので、行李は毎日殆んど売り切れた。その後大正14年信三はこの世を去り、栄八は3代目として家督相続し、営業の方も本業の籐製品に切り替えていった。

 時代は洋家具の全盛期を迎えると共にデパートも復興した。これからはデパートの全盛期を迎えると思いつき、高島屋に交渉したところ快く受け入れてくれ早速納品に取り掛かった。既製品もさることながら注文品も多く随分忙しかった。銀座松屋にも納品をはじめた。文化住宅ブームで殆んどの住宅は応接間があり、そこには格安の文化イスの5点セットが毎日15セット位売れたものである。

 当時、三菱長崎造船所で1万トン級の新造客船アルゼンチナ丸、ブラジル丸、桜丸と約5,6隻次々と新造され、当時の客船はデッキ上では全部籐イスを使用したので全部当店で製作納品した。

 さて、昭和10年バラック建てでは手狭で資金も調ったので3階建て本建築を建設。栄八、よし、長男光男、次男恒雄、長女孝子、養母益、叔父の久兵衛、それに店員の稲葉、田中、斉藤他2名、その上職人数名の大家族となり、収容しきれないので、遂に工場を横浜山下町に移し、注文品のみを横浜工場で製作することにし、営業も順調に伸びたのである。

 ところが昭和12年日華事変がきっかけで支那事変となり、我々業界の主要資材の籐の輸入もだんだん品うすとなった。昭和16年には大東亜戦争戦争に突入した。若い人達は応召或いは軍需品工場に勤労奉仕に動員され、店員は1人去り2人去り遂に一人もいなくなった。工場の職人も自然解散のやむなきに到った。戦争の傷跡は深く、特にあの昭和20年3月10日の大空襲で新橋の店の全てを焼失した。その時の光景は絵にも筆にも書き尽くせない。命辛々妻の実家、長野県の須坂に逃れた。

 さて、戦後東京に戻るが、籐の資材もなし、取り敢えず日用品の雑貨類を仕入れて兎に角開店にこぎつけた。当時新橋駅付近は東京でも1,2を競う闇市が立ち、なかなかさかんであった。戦争中余り見なかった物資が何でもあるので驚いたものである。さて我店も品物を並べてみると物不足のためか随分売れ行きがよかった。そうこうする内に資材も順調に入るようになり、又先前の下職増田氏がこれからお宅の仕事をさせてくださいとの申し出があったので、早速高島屋に話をしたら、高島屋に戦前から家具仕入れにいた牧野氏が復員していたのでお願いすると喜んで「田中さんが来るのを待っていた。」と言って、早速その設計に取り掛かる事にした。丁度夏の家具の陳列期に向かっていたので、高島屋設計部でも籐椅子の設計に取り掛かっていた。当店でも15種類の図面を提出したが、全面的に当店の図面が採用されたので本当に嬉しく思った。直ちに製作に取り掛かり、裂地は全てお店から提供された物を使い、売場の陳列期日までに間に合わすべく努力一意製品に心をこめ、いよいよ本来の籐椅子屋になれたと思うと一層の励みも出た。これもひとえに製作者増田氏及びこれに関連した下請け業者、長男光男の協力あっての事である。売場に陳列した籐家具は当店の製品ばかりで一種の優越感を感じたものである。

 昭和26年東京籐製品工業組合及び東京籐商工共同組合の解散後、昭和32年現在の東京籐商工同業会が創立。東京籐製品小児乗物協議会並びに全国籐商工連合会東京都共催による幾多のコンクールに田中栄八商店としてその都度出品。昭和33年3月最初のコンクールで、子供椅子で3点セットが1位の都知事賞を受賞。その後もコンクール開催の都度必ず受賞の栄誉に輝いた。昭和49年東京籐商工同業、小児乗物協同組合並びに芝家具協同組合の推薦により、当時の美濃部都知事より中小企業発展のため貢献したという事で、表彰状をいただいた。

[1970年代半ばの手記より抜粋]

1978年 夏 旧新橋店舗にて、栄八(左)光男(右)

写真は1978年夏テレビ東京『のれん物語』にて故古今亭志ん朝に取材を受ける栄八夫婦と光男

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